嫌いなものについて

僕はyoutuberが嫌いだ。

 

コムドットとかスカイピースとか、多くの人が叩いているyoutuberは冷やかしですら見る気にはなれないし、人にオススメされたyoutuberも基本見ない。

 

教室の後ろで楽しそうにしていて、たまに大きな声で笑っている、陽キャでもなく陰キャでもない奴らがやってるようなノリをわざわざ動画で見て何が楽しいんだよ。

 

知ってる人だったらまだしも、知らない人たちの内輪ネタっていうのは疎外感も覚えるし、なにより何にも面白くない。

 

テレビで擦られまくっているネタをさも自分が考え付きました、みたいなテイで企画モノとしてアップして、地上波から離れつつあるZ世代がそれを新鮮な気持ちで見る。

そして「天才だ」なんて言われて再生数を稼ぐ。

おまけにテレビと違って彼らを止められるのはほとんど彼ら自身しかいない。

イジりとイジメの違いも分からないような奴らが仲間をイジメて、それを面白がって動画に撮る。そんな様子は見るに堪えない。

 

 

僕は面白系ウェブライターが嫌いだ。

 

よくわからない世界観を一本筋で持っていて、その世界で生き続ける。

その様子を文章だったり画像だったりで表現し、気づいたら似たような価値観の人たちが集まり、狭い集団が出来上がる。

 

いつしか読者もその社会の一員になっていて、世の中の大多数からは理解を得られないようなユーモアでしか笑えないような、まともなコミュニケーションが取れない人間が出来上がる。

そうした人間は大抵サムい。共感性羞恥のせいだかなんだか知らんが、こっちが鳥肌が立っちまうよ。

 

 

 

 

以上、嘘でした。

 

本当はyoutuberのことは嫌いじゃないし、何なら毎日のように東海オンエアは見続けている。

勿論好きじゃないyoutuberもいるし、コムドットも一回も見たことない。

 

テレビでやってるようなことをマネしてる奴らもいるけれど、実際は彼らが必死に考えて思いついたものをやってみると実はテレビで既にやられてました、みたいなオチだったりするのだろう。現代で生まれる音楽はほぼ100%過去の偉作のオマージュが入っているなんて言われてるし。

内輪ネタをエンタメにまで昇華させ、それを視聴者も楽しめる形で提供するなんて凄いと思う。

 

面白系ウェブブロガーも大好きだ。

オモコロは暇さえあれば見てしまうし、ARuFaの日記なんて中学生のころから読んでいた。

確かにウェブブロガーの追っかけってちょっとサムいと思うこともあるけれど、僕がオモコロというコンテンツを楽しんでいるように、彼らは彼らなりにコンテンツを楽しんでいる。何なら僕は一人で夜な夜なブログを読んでニチャついているわけだが、彼らはイベントに行ったり仲間を作ったりしてよっぽどポジティブに楽しんでいる。やっぱりサムいって言葉は取り消し。

 

youtuberもウェブブロガーも嫌いどころか、実はメチャメチャに嫉妬している。

彼らはきっと現職につくまでは僕たちと同じような日々を送っていたはずだ。そして何となく自分(達)の日常を動画や文章で対外的に表現しているうちに、ファンがつき、スポンサーが付き、そして今の地位を得ているのだろう。

 

日常を表現しているうちに大物になる、これが芸能人との大きな違いだと思う。

スカウトされたり、オーディションを受けたりして有名になっていく芸能人は、確かにうらやましいと思うこともあるけれど、なんだか僕とは違う世界の住人なような気がして妬ましいとは思わない。

たまにテレビなどで見る彼らの日常も、あくまで芸能人の日常として映されているせいか、親近感がわくことは殆どない。

反面、youtuberは一般人と何ら変わらない日常を映している場合が多い。

もちろん、とてつもなく成功しているyoutuberの現在の日常は僕たちのそれとはかけ離れていることが多いが、昔の動画なんかを見てみると、僕たちと何ら変わらない環境で、等身大の彼らが企画をやったり日常を映したりしている。

ウェブブロガーも、最初はツイッターで適当にネタツイをしていたり、ネタブログを書いたりしているうちに有名になっていく。ネタツイッタラー時代や、もしかしたら今現在も僕たちと変わらない生活を送っている人も多くいるだろう。

 

なんだか、手が届きそうで手が届かない、そのもどかしさが嫉妬に繋がっているのかもしれない。

そして手が届かない大きな要因には、センスという大きな壁が立ちはだかっていることもわかっている。

東海オンエアやARuFaを見ていると、流石に彼らのセンスを認めざるを得ないことが多すぎる。

 

僕も27歳の年だ。そろそろ自分のセンスのなさも愛せるようになりたいし、羨ましいとか嫉妬心とかを持たずに人生を楽しめるようになりたい。

 

 

↓東海オンエアにハマったきっかけ↓

【山奥のリゾート】2泊3日!寝たら"即帰宅"の旅!Part1 - YouTube

↓ARuFaのオススメ記事↓

実家の母を安心させたくて『一人暮らし中の家』に初招待してみた | オモコロ

 

藤本でした。

カウンター

お久しぶりです。

久々にサウナに行ったら顔が赤くなったっきり戻らなくなった藤本です。

 

 

最近、やたらとサウナが流行っている。

 

もちろん自分もその流行りに乗った身である。

 

ドラマのサ道を何となく見て、サウナってこんなにいいものなのか、行ってみようかな等と思い、一人で行ったり友達を誘って行ってみたりした。

 

そして気が付いたら友達の方がサウナにハマっていた。このようなことが何回かあった。

 

思えば、サウナ以外でも、僕が何か良いなと思ったものを友人に勧めた結果、友人の方が僕よりハマったケースは幾度となくあった。

そのたびに、そいつの好奇心というか探求力というか、一つのものにハマり続けられる才能を称賛し、少しうらやましく思っていた。

 

ただ、最近になって、実はそいつらが凄いのではなく、自分に探求心が欠落してるんじゃないか、なんて悩むようになった。

例えばネットフリックスで面白そうだなと思ったものも、ウォッチリストに入れるまでで満足してしまい観ることなく終わる。例えば友人から勧められた音楽を、その時はものすごく感動して聴いて、アーティストの名前や生い立ちを調べるのに、気が付いたら忘れ呆けている。

 

ただ、探求心欠落人間の僕にも、一度始めてからずっとハマっているものがある。

それは深夜ラジオだ。

ひょんなことからくりぃむしちゅーのANNを聞き始め、気が付いたら160余回の放送を3周以上しており、有名なはがき職人の名前やネタも幾つかは覚えている(違法アップロードを聴いてました、すみません)

そして最近では仕事の移動中には欠かさず深夜ラジオのタイムフリーを流し、オードリーやその他諸々のラジオをほぼ毎週分聴いている。

 

思った以上に深夜ラジオリスナーは多いみたいで、最近では数少ない大学の後輩がリトルトゥース(注:オードリーのオールナイトニッポンリスナー)であることが判明し、ラジオやドラマの話で盛り上がったりしている。

 

そしてこの間、その後輩と春日が前住んでいたむつみ荘に行ったり、ラジオの話をしながら楽しく飲んだりした日があった。

だいぶお酒も進み、何軒目かで適当にバーに入った。

そこでむつみ荘に行った話なんかをしていると、バーのマスターから「ラジオ聴くんですか?」と尋ねられた。そこから自分たちが聴いてきたラジオの話をしていると、実はマスターは狂信的なラジオリスナーで、特にくりぃむしちゅーのANNは未だに何周もしているとのことだった。

 

これにはお互い驚き、熱い握手を交わし、僕が普段の20倍くらいの饒舌でセンズリの話などをベラベラ喋っていると、いつしか話題はマスターがラジオを聞き始めたきっかけに移っていた。

何でも、昔からとにかくお笑いが好きだったのだが、実家が厳しく、中々テレビが見られない環境だったという。そこで、夜中にコッソリラジオを付け、お笑い芸人たちの軽快痛烈なトークに聞き入っていたとのことだった。

そして実は一緒にいた後輩も、実家が兎に角厳しかったので、家の中で笑える唯一のコンテンツ、そして逃げ場としてラジオを支えにしてきたという話をしていた。

そこで僕は「あぁ、確かに自分もラジオ好きだけど、この人たちには勝てないな」と不意に思った。

 

何かに束縛され、何かしらの自由が無い環境に生きて、その束縛へのカウンターとしてモノにハマるというのはとんでもなく素晴らしいことだ。ファッションや音楽だって、支配層への抵抗心や、支配層から目につかないような場所で流行った何かが形となり生まれるケースがある。

やや話が大きくなりすぎたが、僕の後輩やバーのマスターは、家庭の目をかいくぐって自分の楽しみを探求し、ラジオにたどり着き、そして今もなおラジオを熱心に聞き続けている。そういった意味ではラジオリスナー文化の大きな担い手とも言えるだろう。

 

だからこそ、彼らには勝てないと思った。もちろん物事の好き度に勝ち負けがあるわけないし、あってたまるかとも思いたいのだが、思いたいのではあるが、その時はそう思った。(思っちゃったんだからしょうがない。)

そして、前述のような、僕が紹介したものに気づいたら僕より熱心にハマっていった人たちにも、もしかしたらそういうバックグラウンドがあるのかもしれないし、無いのかもしれない。

そしてそのようなバックグラウンドがあることは幸か不幸かはわからない。でも、そのことが彼らを一つのものへと突き動かしていることは事実であるし、何かにハマる姿というのはカッコいい。

 

まぁ、兎にも角にも僕はラジオを聴き続けるし、いつかラジオよりもハマれる何かが現れることをちょっと期待している。そういえばそろそろオードリー若林と南海キャンディーズの山ちゃんをテーマにしたドラマ、『だが、情熱はある』の第10話が始まる。見なくちゃ。

 

♪A Heady Tale/The Fratellis を聞きながら

 

 

 

この後また、夢でお会いしましょう。アディオス!

藤本でした。

 

 

今まで出会ったすべての人々に

こんばんは

 

1年ぶりに更新します、藤本です。

 

1年ぶりということで、短編的な文章を少しだけ書こうと思います。リハビリのようなもんですね。

 

 

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社会人になって一年が経とうとしている。

 

死にてえくらいに憧れていた華の都大東京で鼻クソのような学生生活を送り、なんだかんだで卒業できてからもう一年か。

 

今、僕は“華“からは程遠い、魅力度ランキング最下位の某県にてメーカーの営業職として働いている。

 

僕にとっては珍しく、やりたいことがあって今の会社の営業を選んだのだが、実際に会社に入ってからはやりたいことが全然できていない。

まさに方向性の違いを感じ始めたバンドマンよろしく、転職を考え始める新入社員のテンプレのような感じだ。

 

かと言って転職するのも面倒だし、正直今の会社でやっていけなかったらどこでもやっていけない、くらいの覚悟で入ったのも事実である。

おまけにやりたいことは“出来ていない“だけで、“出来ない“訳ではない。

 

ただ、適当な僕の性格上、実際にやりたいことって何?kwsk教えてクレメンス、なんて言われたらウッウッ…ってなってしまう。それくらい漠然としてるし、だからこそ行動にも移せないんだろうな。

 

みんなはどう?やりたいこととかちゃんとある感じ?

 

やりたいことがある人!頑張ってくれたまえ。君が会社、社会、村を救うぜ。

 

やりたいことがない人!全然いいだろ。労働なんて飯食って酒飲んで、たまにコスメやら風俗やらを楽しむ為にやってるだけなんだぜ。むしろそういう生活こそ、労働を通してやりたいことだろ??

 

よくわからん人!俺もそうだ。よくわからん同盟でも作るか。そして何もかもよくわからんまま生きていこうぜ。

 

そろそろよくわからんゲシュタルト崩壊が起こりそうですね、やめます

 

 

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もう少し仕事の話

 

最近周りの人のやる気が無い。僕は元々、自分がやる気満々マンになんてなれないことをうっすら悟っていたので、ハナから適当に仕事をやろうと決めていた。

ただ、世の中の大勢の人はそうでは無いらしく、みんな初めはやる気スイッチを高橋名人ばりに連打しながら物事を始めるらしい。

 

でも、やる気スイッチをずっと連打してたら疲れるし、腱鞘炎になるし、疲労骨折してしまう。

同期や歳の近い先輩たちはみんな骨折状態だ。

 

骨折状態になる原因には疲れももちろんあるのだろうが、実はもう一つ、根深いものがあるんじゃ無いかと考える。

 

それは「今後の先行きの見えなさ」だ。

 

「何ありきたりなこと言ってんだよ」という声が聞こえてくるが、おっしゃる通り、ありきたりなことを言わせてもらう。

 

 

大抵の人は20代、遅くても30代から働き始める。

働く目的は生きるため、家族を守るため、いい生活をするため、エロ同人誌を出版するため等々、人によって色々あるだろう。

 

そして一度働き始めたら最後、大抵の人は65歳くらいまで働き続ける。途中休憩を挟むこともあるかもしれないが、結局はお金を稼ぐための行動を何かしら取るだろう。

20代から働いた場合、労働年数は40年強に及ぶ。40年ってあぁた、ちょっと長すぎやしませんの?

 

働き始めの現在までに生きてきた年数は20年ちょっと。40年は単純に考えてその倍の長さだ。

40年前に人々がレコードで聞いていた音楽も、CDやMDを経て今や携帯のサブスクリプションで聴けるようになった。

40年前までは排気ガスをモクモク出しながらブーブー走ることしか出来なかった車も、今や音も出さずに電気で走るものも出てきたし、自動運転なんていう機能も出始めた。

 

それだけ40年という年月は長く、歴史を変えてしまうくらいの期間なのだ。

世界の変化の速度が上がっている現代だと尚更その重みを感じることだろう。

 

そんな途方も無い間、“お金を稼ぐ”という一つのことをし続けるのは辛く、想像すら出来ない。

 

今時大抵の疑問はインターネットで調べれば答えが出てくるが、「40年間仕事をし続けると私はどうなるのでしょうか。そもそも40年後生きているのでしょうか」なんて検索してもまともな答えは得られないだろう。

 

人によっては「わからないからこそいいじゃん、人生楽しもうぜ」なんていうスーパーポジティブパーリーピーポーな考え方を持っているかもしれない。でも、少なくとも僕は、漠然とした不安や長い月日に押し潰されそうな感覚すら覚えてしまう。

 

多分やる気を無くした人たちも同じようなことを顕在・潜在問わず感じているのかもしれない。

実際6月くらいに僕もそれで悩みすぎて頭が沸騰し、脳みそから温泉が噴き出てしまった。

 

まぁでも、もしかしたらほとんどの人が同じような悩みを持っていながらも頑張って生きてるのかもしれないし、10年もすりゃそんなことも考えずに脳死で働けるようになってるかもしれない。でもあぁた、10年も結構長くってよ。

 

デヴィ夫人ならぬデヴィフジモトがまた出てきてしまった。終了〜〜

 

 

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ほんとはここから物凄くネガティブなことを書こうとしていたが、いよいよまとまらず、そして誰も得しないことに気づいたので消した。

結局お仕事の話で終わってしまったな、まぁ社会人なりたてなので許してください

 

とりあえず僕は元気です。11月から1月にかけて、訳わからないくらい風俗にお金を使いました。それも他人の分を払ったりとか、ニューハーフが来たりだとか、もう訳わかりません。

M性感はいいですよ、自分の中のドMを引っ張り出すのもストレス発散になるかもしれないですよ、そこの君!

 

 

 

というわけで今日はこの辺で終わります。

 

 

漂流教室/銀杏BOYZ を聴きながら

 

 

藤本でした

ネオ草食系

あけましておめでとうございます。昔貰った年賀状に「あけましておめでとうって何がおめでたいのかわからないですよね」、と書いてあったのが忘れられない藤本です。今年もよろしくお願いします。

 

改めてあけましておめでとうございます、何がめでたいのかわかりませんが

 

 

 

ここ最近はずっと卒論に追われていた。

 

とは言っても内容は勿論分量も大したことないもので、卒論そのものよりも自分の怠惰さや意志の弱さ、心の弱さに追いつめられていたのかもしれない。自律神経やメンタルの面でもブレブレになってしまったし。

 

ちゃんと卒論を進めるべく字数を埋めるべく文献を適当に探していると、草食系男子について書かれた論文を見つけた。

 

そもそも草食系男子とは、

草食系男子とは、心が優しく、男性らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと

を指すらしい(wikipediaより)(論文でwikipediaの記事をそのまま引っ張ってくると処される)

 

「草食系男子を自称する男は大抵が女性を油断させる為の手段として草食系男子という言葉を用い、実際は肉食系なので要注意!」なんてこともよく聞くが、恐らく僕もこの「草食系男子」に分類されると思う。

自分でこんなことを言うのも大概恥ずかしいが、どうも僕は人を傷つけたり人に傷つけられることが苦手である。だから滅多なことがないと人に対して怒ったり、罵詈雑言を浴びせたりなんてできないし、学生時代も兎に角自分が傷つかないようにだけ過ごして来た。

 端的に言えば「事なかれ主義」であり、八方美人でありたい人間なのだと思う。

 

それは別に恋愛においてだけではない(恋愛経験のほとんどないヤツが何を言ってるんだよ、という話だが)。怒る/怒られる、傷つく/傷つけられるのがいやだ、というのは親や先生、バイト先の上司に対しても感じていることだし、勿論友人に対しても感じていることだ。もし誰か僕に酷いことをされた人がいたら本当に謝りたい。

 

草食系男子の性質を恋愛以外の面でも持ち合わせているという意味では、「ネオ草食系」とも呼べるかもしれない。というか呼んじゃおう。なんかネオってつけたらカッコいいし、新しい言葉を思いついた自分に酔いたいからだ。

 

そしてこのネオ草食系という性格は生きづらい気がしてならない。勿論人間なんてみんな何かしら生きづらさを抱えて社会生活を送っているわけだし、自分やネオ草食系が特別だってことを言うつもりはない。

ただ、ネオ草食系の事なかれ主義は、他人との接触の中でどんどんその人自身が消耗されていくように思えるのだ。人から怒られたりしても人に対して怒れないし、多分だけど心が病んだ時とかに人を頼るのが苦手な気がする。

 

身体が病んだ時は人を頼ればいいと思う。十分な栄養が取れる食事を作ってもらったり、何か買ってきてもらえば治る。その負担は大したことないし、頼った人が同じような目にあったときにすぐに恩を返せる。

しかし、精神が病んだ時というのはこれが中々難しい。精神的に元気な人に「実はこんなことがあってさ…」なんて相談すると、向こうにまで負のオーラが伝染する気がするし、気も滅入るだろう。風邪だったら「気合いで治せ」なんて言えたとしても、精神的に病んでいる人はそもそもその気合いを出す余裕なんて無いことは自明である。だから掛ける言葉も慎重になるし、「無理矢理」明るい話題に持っていくくらいしかそいつからの相談をやり過ごす手段がないことだってあるだろう。そして何より過分に心配してしまうことも多々ある。つまり頼られる方も時間、労力、そして気持ちを消耗してしまう。

 

これを踏まえると、人を傷つけたくない性格のネオ草食系は、自分の心の悩みを人に吐露することにためらいを覚える。唯一他人に打ち明けられる瞬間があるとするのなら、それは同じような悩みを相談されたときだけである。「自分もこんなことで悩んでるんやで、悩んでるのは君だけじゃないんやで」というメッセージを込める意味合いで悩みを打ち明けられる。しかしこれは心の病の解決には決してつながらない。傷のなめ合いになってしまう。そんなことを考えていると悩みを打ち明けるのにグズグズしてしまう。結局相手の悩みを聞くだけで終わることもあるだろう。

そして優しくありたいので人の悩みはいつでも聞く。そうすると自分は消耗される。大変である。

 

多分、ネオ草食系は自らの悩みをSNS等に書くことで発散するのだと思う。自分の悩みを言葉にしてインターネットの海に漂わせ、それで人に打ち明けた気になる。いわゆる「ネオ」なストレス発散法を身に付けている人間であるし、「弱い人間」でもある。しかし、その行為にすらためらいを覚え始めた時、それはかなり危険な状態であろう。

 

幸運にも、僕にはそのような場としてのSNSやこのブログがあるし、また本当にヤバい時に悩みを聞いてくれるような友達にも恵まれている。最も、僕は能天気な性格である為、そもそもヤバイくらいに悩むことはそんなにないのだけれども。

ただ、そんな僕も、冒頭に書いたように卒論には相当にやられてしまった。自ら卒論を書く道を選んだのにも関わらず、である。そしてこれまたラッキーなことに、世の中の卒論を書いたことのある人は割と同じような悩みを抱えていた上に、人に対して愚痴ることで発散していたっぽかったので、愚痴は沢山聞いてもらえた。みんなありがとう。

 

 

久々のブログがものすごいネガティブな記事になってしまったので、最後にありがとうなんて書いたけどそれで相殺されたかな。それでつまらなさが加速してないかな…

ひそかにしたためているブログネタを大学生のうちに放出したいのですが、ほぼ全部楽しくない内容なので迷っています。なんか楽しい話を織り交ぜつつ書きたいものですな。

 

 

 

♪innocent world/Mr.Children を聴きながら

 

藤本でした

 

innocent world

innocent world

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20歳(2)

こんにちは

 

 

最近気圧に負け続けている藤本です。梅雨なんか飛ばして早く夏に行きたい。その思いでセレクトボタンや×ボタンやらを連打しても梅雨は飛ばせません。南無。

 

 

 

今日はまた20歳の頃のことを思い出しつつ書こうと思う。

 

 

 

僕の20歳を語るうえで欠かせない月がある。3月だ。

3月はほんと悲惨だった。

 

 

まず、いきなりだが3月初めに急性アルコール中毒で病院に担ぎ込まれた。

 

 

 

 

その日は中学の同級生たちと新宿で飲んでいた。二郎君の浪人終わりのお祝いということもあり、一軒目から結構盛り上がっていたと思う。

当時、自分は酒が強い、と妄信していた僕はその場で確かビールやウーロンハイ等を10杯近く飲んでいた。それでも何となく飲み足りないような気分で、二軒目に向かう時はルンルン気分で先陣を切っていた。阿保。

 

 

そして行き着いた2軒目。確か九州酒場みたいなテイストで、焼酎のメニューがやたら豊富だった覚えがある。勿論僕たちは飲み放題の安酒メニューしか見てなかったけど。

 

 

そこで何故か、過去に日本酒や焼酎で悪酔いし相当暴れたことがあるIくんが人数分の焼酎ロックをオーダーした。彼に大丈夫なのかと聞くと、たまにはいいだろ、今日はお祝いだ、みたいな返事が返ってきた。

こうして焼酎が続々と運ばれ、全員にグラスが行き渡ったところで、また調子に乗った僕が「乾杯とは、杯を乾かすと書いて乾杯と言います!カンパァイ!」なんて具合に音頭を取り、焼酎をイッキ飲みした。

焼酎の味はお世辞にも美味いとは言えず、皆チェイサーをがぶ飲みする中、僕だけチェイサーに口を付けなかった。もうその時には味覚がバグっていたのか、ただ単に水を飲むのがめんどくさかったのかはわからない。Iくんにも「お前やるやん」、と言われたのを覚えている。

この「お前やるやん」を皮切りに、自分の分はもちろん、お酒をあまり飲まない人の分まで僕の元へ寄せられた。調子に乗っていた僕はそれらをどんどん飲んでいった。

 

 

その後、僕がヘロヘロになりながら席を立とうとしたその足がテーブルにあたり、Iくんのグラスがひっくりかえったこと、I君がブチぎれたこと、そしてメチャクチャ謝りながらトイレに行ったことまでは覚えている。

 

 

トイレで吐こうと便器に突っ伏し、瞬いた。そして次に目に映った景色は僕の理解の範疇を超えていた。

まず、何故か僕はあおむけだった。何故か天井が白く、何故か周りに白衣のお姉さんが立っていた。そう、長い瞬きを抜けるとそこは病院だった、のだ。

 

 

起きてからもベロンベロンだった僕は、車いすに乗せられシャワー・トイレへ連れてかれた。そして戻ると、飲み会にいたH君と、飲み会にいなかったはずのT君が待ってくれていた。話を聞くと、T君はH君からのヘルプを受けて僕を介抱してくれたと言うのだ。僕の溶けかけていた脳みそでは、もう何とお詫びをすればいいのやら、ということしか考えられず、彼らが僕の代わりに色々病院の手続きをしてくれていた間ずっとゴメン、本当にゴメン、と連呼していた。

その時彼に「頼むからもう謝らないでくれ」と怒られた。

 

 

その時僕はコントのようにまた「ゴメン」と言ってしまったのだけど、後に考えたら、その時言うべきだった正解の言葉は「ありがとう」だった。

 

 

噂によれば、日本人は「ありがとう」よりも「ごめんなさい」と言う回数が圧倒的に多いらしい。人に何かしてもらった/ている時、恐らく多くの人は「この人に今自分は迷惑をかけている」というマインドになるのだろう。もちろん、やってる本人も多少の迷惑を被っていると感じるケースもあるかもしれない。しかし、人が自分の利益にならない他人本意の行動をとるときというのはその人の”優しさ”が原動力になっていることも多いはずだ(僕は性善説派なので)。特に友達に対してだと尚更に。

そんな”優しさ”をしている時、「ゴメン、本当にゴメン」等と連呼されたらどうだろう。初めは「気にすんなって」等とたしなめるだろうが、次第に「なんでこんなに謝られなければならないのだろう、自分なんか変なことしたっけ」等、良いことをしているはずなのに自分を責め始めたり、単純にネガティブな言葉を連呼されて腹が立つだろう。

そう、「ゴメン」というのはあらゆる場面で使える万能薬のような言葉に感じるが、同時にネガティブな言葉でもある。

 

そういう時に「ありがとう」と連呼されるとどうだろう。無論、同じ言葉の連呼はその言葉に込める思いや価値を引き下げるかもしれないし、イライラする人もいるかもしれない。しかし、「ゴメン」と違って「ありがとう」というのはポジティブな言葉で、正直いくら言われても多くの人はそんなに悪い気はしないと思う。「ありがとうってネガティブな言葉じゃん」等という人はよっぽどひねくれている。

個人的には、「ゴメン」と言うとその出来事は終わってしまうが、「ありがとう」と言うとその出来事は先へ繋がるものになる気さえする。なんかこう、例えば恩返ししよう、とか、今度他の人が困っていたらこうして助けよう、とか前向きに今後を考えるきっかけになる。ようわからんが、何かことばと心の関係的な理由があるのかもしれない。

 

 

なんてことを考えてました。

 

 

まぁ、そういうわけで介抱してくれた友人たちにはほんとに感謝しています。もちろん迷惑掛けた部分に関しては申し訳ない気持ちもあるけど。自分もこの間お酒の場で救急車を呼んだ時にその苦労は身に染みてわかりました…

 

 

ちなみに病院で起きた時、全く知らない服を着ていたのだけど、それもたまたま病院の近くに住んでいた高校の友達がわざわざ持ってきてくれたものらしい。本当にありがとうございました。。。

 

 

 

 

余談だけど、人間が意識低下/混濁した時に、その程度がどれくらいなのか計る「意識レベル」って指標があるんだけど、僕は意識レベル300だったみたいです。300がどれくらいか気になった人はここを見てみてね☆

これも余談だけど、親に「どうせ他の人から聞くと思うから言うけど…実はお酒で失敗して...」みたいな電話をしたら「なんだそんなことか、てっきり留年の電話かと思った」って笑われました。息子が死にかけだったのに何だよ、軽いな、、、

まぁ実際この一年後、ちゃんと留年の電話もしたんだけどね…

 

 

 

 

 

これまた長くなったのでここらで終えます。EDを発症した話も3月なんだけど...

急性アルコール中毒の話だけnoteに書けば投げ銭貰えるかな、、、

 

 

 

 

酒は飲んでも呑まれるな

 

 

 

 

♪日本全国酒飲み音頭/バラクーダ を聴きながら

 

 

藤本でした

 

 

 

20歳(1)

こんにちは

 

コロナ自粛で暇なのをチャンスととらえて腹筋始めたら、初日に尾てい骨周りの皮が剥けてやる気が削がれた藤本です。

 

もう腹筋やってません。

 

 

 

 

光陰矢の如し

 

 

最近これを痛感する。

とにかく時の流れが速い。

 

2020年なんて始まってまだ1か月くらいだし4月なんて2日くらいで終わったし今の時刻は5月5日の午前三時くらいなはずだ。俺の体感では。

 

しかし実際は、2020年はもうそろそろ折り返しの時期へと迫っていて、実は4月はちゃんと30日あった。そして5月でさえもう終わろうとしている。

 

最近はコロナによる自粛でどこにも行かない空虚な日々を過ごしている分、時の流れも速く感じるのかもしれない。しかしそれを差し置いても、このペースだと体感2年くらいで20代も終わってしまいそうで恐ろしい。

 

 

そんな折、つい最近20歳の友達が出来た。

 

いわゆるオンライン飲み会で仲良くなった人で、酔っぱらって下ネタばかり話していたら気が合った、というありきたりな友達の作り方、というかクソ大学生の友達作りの王道ステップで仲を深めた。

 

その人とチャットや電話で話していると、自分の20歳の時と同じような生活を送っていることがわかった。唯一違うのはメチャクチャヤリまくっていた時期の有無だ。

 

 

勿論僕は無である。

 

 

そんなことはともかくとして、20歳と話すと自分が20歳の時のことを振り返りたくなった。

 

世間には10代の頃の心情を歌った歌が多い。15の夜、ガラスの10代、センチメンタルジャーニー等々…

しかし、20代の心情を歌った歌はあまり無いように思える。勿論、大概の人が20代で働きに出たり大学に通ったりし、毎日毎日同じことを繰り返し、何ら新鮮味の無い生活を送るようになると、特に歌にするような出来事や感情の変化も無くなっていくのかもしれない。

その点、10代というのは何だかんだ毎日、とまでは言わなくとも、かなり頻繁に新たな出来事に出会い、その都度何かを思い、そして心身共に変わっていく時期だ。20代前半の青二才が何言ってんのか、等とドヤされそうだが、少なくとも僕の中での10代はそんな感じ。まさに思春期。

 

そんな10代から卒業し、晴れて(?)大人の仲間入りをした20歳のことを忘れるのは勿体ない気がしてならない。しかし、あと体感2年もすれば30代の仲間入り、20歳のことなんて遥か昔の話になるし、恐らく何もかも忘れているに違いない。

 

折角の機会だし、そしてブログなんて露出オナニーのようなものだし、と言い訳しながら20歳の時の出来事や思っていたことを覚えている限り振り返ろうと思う。

 

 

 

20歳初日は友達と地元の海で迎えた。真冬の海でパンツ一丁になって騒いだり走ったりした。友達が海に足をつけ、そのまま飛び込むのかと思いきや「これはシャレにならん」といい、そして僕も全く同じ行動をとり、ブルブル震えながら全く同じ言葉をオウム返しした。俺がもし高校生だったらこのまま飛び込んだな、俺たちも「大人」になったな、等と思ったものである。まぁ、夜中に海でパンイチの時点で全く大人になれていないけど。

 

 

成人式にも参加した。友達三人で行く予定だったのだが、当日の朝、うち一人が全く来る気配がなく、電話しても出なかった。そして「あと五分来なかったら置いて行こう」等と話していると、よれよれの私服姿のそいつが走ってやってきた。話を聞くと、前日飲みすぎて朝起きたら手ぶらで公園にいた、今もパニックだ、ということだった。ひとまずスーツに着替えさせ、ダッシュで会場へ向かった。

 

僕は「人生で一度きりの経験だから」などと真面目ぶって式典に参加したのだが、大抵の場合「ありがたいお話」ってのはつまらなく、聞くだけ時間の無駄、ということを完全に忘れていた。もしこのブログを読んでいる新成人の方がいるのなら、成人式では式典参加よりも友達と喋ったり写真を撮ったりすることを最優先してほしい。

 

そんなこんなで式典を終えた僕たちが次にやったこと、それは友達のカバン探しだ。先述のように、一緒に成人式へ行った友達は記憶もカバンも無くした手ぶらの状態で朝を迎えていた。勿論彼のカバンの行方は誰も知らず、探そうにもどこを探せばよいのやら。

 

そんな中、彼は一つのヒントを見つけた。それは「ゲロ」だった。

 

聞けば彼は酔っぱらってその辺で吐きまくったことは覚えていたらしく、起きた場所周辺に落ちているゲロを辿っていけば彼のいた場所を順に追えるし、カバンも見つかるのではないか、ということだった。かくして僕たちは成人式という晴れの舞台、一生に一度の思い出になる日に公園中を駆け回ったのだった。ゲロを探して。

 

 

まぁその後なんだかんだでカバンは見つかり(最後に見つけたゲロのあたりに落ちているのを公園の管理人さんが拾ってくれていた)、中学の同窓会にも参加した。この同窓会が酷く、まずご飯があまりおいしくなかった。そして何より、折角新成人を祝う場なのにお酒がほとんど出なかった。会費だけはいっちょ前の金額を徴収されたのに。

 

僕の中のイメージでは、同窓会ではお酒を交えながら数年ぶりに会う旧友たちと昔話に花を咲かせ、そして同級生の女子たちともお酒や雰囲気の力を借りて他愛もない話で盛り上がり、二次会では男女交えてくだらない話や下ネタなどで盛り上がる。そしてそろそろ三次会に行こうか、という時に、「ねぇ、俺たちだけで抜け出さない?」等という甘い誘い文句と共に意中の女子と夜のとばりへ消えていく…

 

そんなテンプレ同窓会プランはそれこそ闇に消え、結局いつもの仲間といつも話すようなことを話し、いつもと変わらない楽しさを味わう結果となった。ちなみに同窓会に来ていた同級生たちの女子たちは皆あか抜けていたり、中学の時から変わらない個性を身にまとっていたり、と見ていて飽きなかった。何故見ていただけかって?話す勇気が無かったからに決まってるじゃあないか。。

 

そんなこんなで同窓会はそれなりの盛り上がりで幕を閉じ、部活のメンバーで二次会に向かったり海へ行ったり等とまぁ楽しかった。スーツで飲みに出かけるのも新鮮でなんかこそばゆい感じもあったしな。

 

 

 

 ここまででまだ20歳の1/10くらいしか書けてない。流石にダラダラ書きすぎた気もする。だいぶ遅漏ですね俺は。

 

 

しかしほんとに長くなりすぎたので今日はこの辺で終わります。

 

 

 

ガラスの十代/光GENJI を聴きながら

 

 

藤本でした

涙の数だけ

おはこんばんにちは

 

久しぶりのブログ更新、藤本です。

 

久しぶりですが、以前と変わらず近況というか感情というか、を書こうと思います。

 

 

 

先日、就職活動が終わった。

 

終わった、というよりかは終わらせたという方が正しいのか、兎にも角にも行きたかった会社から内々定をいただき、もうここ以外行きたくねえ、これでいいのだ、と思ったので「終わった」。

 

その会社からは電話で結果を伝えられただけだったし、自分が思ってたよりもかなり早い就活の幕引きとなったので全く終わった実感がなかった。

 

それでも、友達や家族に色々話すうちに何となく嬉しくなったし、少しずつ実感もわいてきていた。

 

 

そして、内々定をもらってから数日後、突然ヴォイ泣きしてしまった。

 

 

その日は大学の先輩と飲んでいた。近況報告や他愛もない話に花を咲かせていると、突然携帯が鳴った。企業からのメールで、他社の選考辞退のお願い、という内容だった。

 

ようやく形に残る文章で自分の内々定を確認でき、先輩の話を遮って喜んだ記憶がある。

 

そしてテンションも酒のペースも上がり、二軒ほど周った後、更にうちの近くで飲みなおそう、ということになった。(余談だがその時うちには居候がいて、先輩とは面識のない彼も何故か飲みなおしに来た)

 

その時には俺は相当酔っていて、正直最後に行った店では一滴くらいしか飲んでない気がする。

 

俺がそんな感じだったので、店から早々と出て、とりあえずみんなでうちに向かうことになった。

 

 

その道中のコンビニの駐車場。そこで俺は急に嗚咽しだした。嗚咽はどんどん激しくなり、気が付けば泣き声をあげていた。

 

何故泣き出したのか、そのきっかけは全く覚えていない。しかし、何故泣いていたのかはハッキリわかっていた。

 

 

 

まず、このブログを読んでくれている友達ならわかっているとは思うが、俺はこれまで基本導線の綱渡りのような感じで生きてきた。何をするにも余裕を持ったことなんてなかったし、皆と同じことをやるにしても基本はドンケツだったりギリギリのラインだったりでなんとかやり過ごしてきた。

 

しかし歳を重ねるにつれ、「やり過ごす」ことが出来なくもなってきていた。そんな自分に嫌気がさし、どんどん自信を失い、元々のネガティブ思考が輪をかけて酷くなっていった。

 

一度、友達から「生きるのが下手だね」と言われたことがあるが、まさにその通りだと思う。

 

そんな、常に自分に自信が無い俺が、皆が経験するライフイベントに対し、初めて余裕を持ってゴールが出来たことに対する信じられなさや嬉しさ、これが涙の理由の一つだった。

 

更に言えば、今年になってようやく大学の単位にも余裕が出来た。学業において余裕ができたのもここしばらくで初めてのことかもしれない。(5年も大学に通ってるのだから当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。)これも相俟ってヴォイ泣きへ繋がった。

 

 

そしてもう一つの大きな原因は「寂しさ」だった。

 

大学に同じ年に入学したやつらはほとんどみんな卒業して4月から社会人になってしまう。仲の良かった地元の友達も大抵が社会人。ここにきて、社会に取り残されている感というのがジワジワと心をむしばんでいた。

 

別に友達じゃなくなる訳でもなく、一生会えなくなる訳でもない。しかし皆と俺では社会的な立場が変わるし、勤務地だってバラバラで、本当もしかしたらもう会わない人も出てくるだろう。そんなことを考え出すともう涙が…

 

 

泣いてしまったことは少し、いや相当恥ずかしいし、居候にはドン引かれ、先輩にはずっとなだめてもらって迷惑もかけたし、勿論次の日は二日酔いでダウンしてしまったが、こんなに感情的になれたのも久々で実は嬉しかった。

 

次、堰を切ったように泣く日はいつ来るのだろうか。うれし涙だったらいいな、等とクサいこと言って久々の投稿を終えることにします。

 

 

 

 

tomorrow/岡本真夜 を聴きながら

 

藤本でした